00-10 (Japanese Only)

2005年 その4

11/5  <人はこうして遅刻する。>
 冬に入る前の最後の穏やかな暖かい土曜日。
昼過ぎに目覚め、遅い朝食をとる。
 買い物をしたり、編集中の百々徹の新譜を聞いたり、練習をしたり(ピアノ? ゴルフ?)。 部屋にさしこむ日差しのやさしさに、ふと、うたた寝をしたり。

 そして7時30分。
9時スタートの Pete Zimmer Quartet のライヴの仕事へ向かう。

 238st 駅に行くと、張り紙が目に飛び込んできた。
『工事で閉鎖中。 242st 駅に行け。』

 しぶしぶ、ひと駅分歩き、電車に乗り込む。 最近読み始めた『東京アウトサイダーズ』( Robert Whiting 著)をカバンから取り出す。 戦後の混乱下の東京で暗躍した外国人の実録。 アメリカ人作家の視点から、日本のヤミ社会が克明に描かれていて興味深い。 10ページ程読み進んだところで異変に気付いた。 乗車してから、電車が全く動いていない。
『181st 付近で線路故障のためしばらくお待ち下さい。』
という駅長からのアナウウンスが入ったのが8時5分。

 焦った。 そして不愉快になった。
とても素敵な土曜日だった。
そして素敵に演奏する予定だった。
しかし、人はこうして遅刻するのだ。

 そもそも、電車で仕事に行こうとしたのは、最近めっきり僕の車が調子悪くなったからだ。 しかし、このままでは仕事場までたどりつけない。 電車を降りて、走って238st のアパートに戻り、キーを取って車を走らせる。(8時15分)

 Westside Highway は56st あたりから混雑しだした。
Pete に、遅れるかもしれない、と電話を入れる。(8時35分)

演奏会場、Cornelia St.Cafe はウェストヴィレッジにある。 人が群がる土曜日の夜に路上駐車スポットを探すのは至難の技だ。  Blue Note の前にある駐車場に入れようと目指すが、満室。(9時5分)

 Cornelia St.Cafe から2ブロック離れた小道のT字路の角に路上駐車スペースがあった。 止めてエンジンを切って外に出てみると、前に止めてあった車との車間が空き過ぎており、しかも、僕の車のおしり部分が少し車道にはみだしていた。 少し前に詰めようとエンジンをかけようとしたら、何故かエンジンがかからない。 バッテリーがあがってしまったのだろうか!(9時18分)

 そのままにして、演奏会場へ走った。  Pete は僕の到着を待っていてくれた。 汗ほとばしり、尿意むずましいままファーストセット、30分遅れで開始。  Joel Frahm (ts)・Joseph Lepore (b)・Pete Zimmer (ds)・Toru Dodo (pf) の布陣。(9時30分)

 演奏開始後、頭の中によぎっていたのは、
『あの駐車の仕方では、駐禁チケットをいただくだろう。
最悪、牽引されてしまうかもしれない。
しかし、エンジンが、かからなかったのは何故だろう。そもそも地下鉄が動かないのがいけないのだ。
最低だ、NY の地下鉄。
だから車が必要なんだよな。
でももうあの車は廃車だなぁ。
牽引されたらどうしよう。
駐禁チケットは絶対もらってるよなぁ。
バッテリーが死んだのかなぁ。
やだやだ。 あぁトイレに行きたい。』

 しかし演奏は、コミカルでリリカルでトリッキーで、ジャズの王道なのに新しく、今、日本ではピアノブームだが、もしこの人が理解されないようならば、表面的なブームだと言わざるを得ないと聞くものに言わしめた。

 休憩後、バンドメンバーに遅刻の弁解。 トイレで解放後、すぐラストセット開始。 終了。(11時。)

 想像される不幸に沈む僕を心配してくれた心優しい Pete が、
『一緒に行って見てあげるよ。』
と声をかけてくれた。

 人通りの激しい 6 Avenue を1ブロック2ブロックと Pete と歩く。
『あの角を曲がると、不幸が訪れるよ!』 
と自虐的なセリフで気分を紛らわすドド君。

 そして角を曲がり、駐車したT字路まで急ぐ。
僕のフォードのお尻が見えた。
前へ廻って見ると、駐禁チケットもなかった!
『この駐車の仕方で、よく大丈夫だったね!』
と驚く Pete 。

 エンジンをかけてみる。 かからない。
しかしライトが点いた。 バッテリーが問題ではないようだ。 スペアキーで何回かスターターをまわしてみた。

ブルン!!!
鍵の接触が悪いのだろうか。 ともかくエンジンがかかったのだ。

『今日は実は最高にラッキーな日なんじゃないの、トール!』と Pete 。

『ラッキーだよね。 ありがとう。 家まで送ろうか?』と僕。

『その車じゃ、ちょっと遠慮させていただくよ。
安全運転で気をつけて帰りな!』と Pete 。

 12時45分頃無事帰宅。
これが、NY のアンダーグランドで暗躍する、走りすぎて足が筋肉痛の日本人ピアニストの実録。(百々徹著)

11/8  <ショーもこうして遅れる>
 今日の SOMI の Cutting Room でのショーが開始予定時刻より30分遅れたには訳があった。

 6時30分サウンドチェック。
Somi は渋滞に巻き込まれ、15分遅刻。
この日は、ピアノにハープにパーカッションという変則的な編成。 今回 Somi バンドに初参加のコロンビア出身のハーピスト Edmar は、前日にリハをしたとはいえ、ほとんど初見。 あまり親切な譜面ではないため、いちいち曲の構成を確認する始末。

 サウンドチェックというよりか、リハーサルになってしまい、 Somi さんは苛立ちを隠せない。
『今、リハをしている時間はないの。 着替えにメークアップもしなくちゃいけないの。 ちょっとマイクロフォン、もう少しリヴァーヴをかけてちょうだい。』

 7時45分 客入れ。
『トール、エドマーと楽譜の確認しておいてちょうだい。 着替えてくる。』
 ここはこうで、ここはああでとエドマーと打ち合わせしていると Somi より携帯が鳴る。
『トール、ちょっと控え室まで来て!」

 地下にある控え室に行くと、呆然として立ちすくむ Somi。
『着替えの服一式をタクシーに置き忘れちゃったみたい。 どうしよう。。。。。 ね、客席にジョセフィーヌはいた? アンジェラはいた? ジェレマイアはいた?』

 彼女の友人の名前を言われても、エドマーと曲の打ち合わせをしていた僕に、何も手立てがないのを理解した Somi は、携帯電話を取り出し誰かと話しだした。
『ジョセフィーヌ、ちょっと来て、大変なことになったの。』

 僕はまたエドマーのところに戻って曲の確認。
開始予定時刻8時は既に過ぎた。 10分、15分と時が経つ。

 サウンドエンジニアが安全ピンを持って控え室に駆け込んでいくのを見た。 戻ってきて僕に、
『今、彼女メークしてる。あと10分くらいかな。』と報告。

 8時25分に Somi 控え室から姿をあらわす。
羽織っていたカラフルな腰巻きを身体に巻き付けていた。 それはそれで衣装に見える。 安全ピンが要所要所をおさえていた。

 Somi は本番前には必ずバンドメンバーと輪になって手を繋ぎお祈りをする。 こんなショーを遅らせてもお祈りはする。
8時30分、ようやくショー開始に漕ぎ着けた。

 このショーの模様は、12月に発売の『 JazzLife 』1月号の NY Report のページに詳しく掲載される予定。 お楽しみに。

11/12  <まだ続く、ショーが遅れる話。>
 1)10日。 歌のジェニファーさんのとあるレストランでの仕事。 ピアノがない場所なので、彼女が自分でキーボードを持ってきてくれる。 ところが、何度もスイッチをカチャカチャさせても、キーボードに電源が入らない。
キーボードの故障か? 電源コードの故障か?

 このレストランは、ヤンキースタジアム近くにある。 割と僕のアパートの近所だ。 前日、やむにやまれず修理した愛車で片道15分。
『家から僕のキーボードを持ってくるよ。』
と騎士道精神を発揮。
 およそ35分後 レストランにカムバック。 一応、彼女のキーボードに、僕のキーボード用の電源アダプターを差し込んでみたところ、見事に電源が入った。 キーボードに電源が入っていることを示す赤いランプがまぶしい。 結局、定刻から40分遅れで演奏開始。  2)12日。 歌のタエコさんのとある日系バーラウンジのイヴェントで演奏。 ピアノのない場所なので、僕が自分のキーボードを持ち込む。
 ところが、何度もスイッチをカチャカチャさせても、キーボードに電源が入らない。 キーボードの故障か? 電源コードの故障か?

 このバーラウンジはミッドタウンにある。 僕のアパートから週末の渋滞で片道1時間10分かけて到着した場所だ。
『オレのキーボードを持ってくるか?』
とこの場所の近所に住む ドラムのダグが騎士道精神を発揮。 二人で僕の車が駐車してあるスポットまで走る。 エンジンをかけていざ出発しようとした時に、ダグの携帯電話が鳴る。 タエコさんより、
『ガクさん(ベース)がキーボードを直してくれたよ。 すぐ戻ってきて。』
ガクさんの騎士道精神で、僕の電源コードの電圧の設定ツマミがずれていたのを指摘。 バーラウンジに戻ると、僕のキーボードに電源が入っていることを示す赤いランプが煌煌と輝いていた。
結局、定刻から40分遅れで演奏開始。

11/22  <こんなことがありました。>
 わからないことってあるものです。

 多分、今年の8月のことだったと思います。 日曜のクレパトで仕事をしていた時に、その方にお会いしました。 僕のトリオのファーストセットの演奏を聞いた後に、話しかけにこられました。

 30代から40代くらいの黒人男性。  New Rochelle( NY州郊外)の方でジャズコンサートを定期的に企画している。 君のバンドを11月にブッキングしよう、というお話でした。

 会場にはピアノがないので、キーボードを持ってこれるか? と聞かれた事、ギャラは前もって、半分を支払うから、と言われた事を覚えています。
 以前行ったという 彼の企画するコンサートのチラシを 見せてくれたような記憶があります。 僕の写真や CD やプロフィールが欲しい、というので とりあえず僕の名刺を渡したのを覚えています。
 しかし彼は名刺を持ち合わせていなかったらしく、こちらから連絡するから、ということになりました。
 そうそう、歌手だと言うこの方、ジャムセッションでしっかり一曲歌った事も覚えています。

 それから 彼からの連絡は全くありませんでした。
僕も全く 彼の事を忘れておりました。

 ところが、11月の9日に 彼から電話でメッセージが入っていたのです。
『11月の27日に 君のバンドをブックしているが、都合はどうだ?ギャラは???(まぁまぁ高額)で、時間は6時半から8時30分。 電話を待ってる。』

 その日のうちにコールバックして、演奏できますと伝言を残しました。

 翌日、彼から電話があり、会場の住所を教わり、チラシを作るのでバンドメンバーの情報を教えてくれと言われました。
 彼は、契約書を送るから、僕の住所を教えてくれ、と言ってきました。

 翌々日に、バンドメンバーを確保して、彼にメンバーの名前を伝えました。 彼は、質問があったらいつでも電話してくれ、と言ってました。
 何曲か一緒に歌いたいのだが、いいだろうか? 歌いたい曲のリストも近く送るよ、とも言ってました。

 『 近く、どこかで演奏するかい? 』
 『 日曜にクレオパトラで演奏してるよ。』
 『 明後日か。聞きに行くよ。 I miss you.Toru. 』
 という会話をして電話を切った覚えがあります。

 ( この I miss you をどのように解釈するかは議論の余地があると思います。)

 具体的に何のコンサートだか、会場の場所がどういうところなのか、いちいち確認すればよかったのですが、契約書にすべて書いてあるのだろうと思い、そのままにしてしまったのは、今思うと反省すべきところです。

 さて、その後、クレパトに彼は現れませんでした。
そして、1週間たっても契約書は届きません。

 NY 郊外のコンサート会場へは、車がないと行けません。 ヴァンをレンタカーして メンバー皆 一緒に行こうと計画していました。 レンタカー会社に車を予約する前に、コンサートが本当にあるのか確認しようと 彼に電話をいれてみました。
(19日)

 すると、
『おかけになった電話番号は誤っております(incorrect.)。 もう一度番号をお確かめになっておかけくださいませ。』
のメッセージが流れているのです。 彼とのコンタクト情報はこの電話番号のみなのです。

 とっさに、彼をとりまく一連の話に胡散臭さを感じ、バンドメンバーに事情を説明して、ギグのキャンセルを前提にスタンバイ状態にしました。 バンドリーダーは、こういう世話がけっこう面倒です。

 翌朝(20日)、ものすごい強迫観念にとらわれて目覚めたのです。

・もしかして、彼は、わざと連絡を僕から取らせないようにして、不安にさせ、僕にキャンセルさせるように仕向けているのではないか。

・コンサート当日間際になって、彼は僕に電話をしてきて、コンサートよろしく! と言ってくる。

・僕がキャンセルの意志を伝えると、チラシも刷っちゃった、お客さんもたくさん招待している、どうしてくれるんだ! 損害賠償で訴えるぞ! とイチャモンをつけてくるのではないか?

 僕は、いてもたってもいられなくなりベッドから飛び起き、インターネットの White Pages というサイトで彼の電話番号から彼の住所を割り出し、彼に手紙を書くことにしました。 訴えられるのを前提に、防衛策を講じようと思ったのです。

 彼は New Rochelle に二つの住所を持っていることが判明しました。 因に、White Pages で調べたところ、コンサート会場の住所は、どこかの教会の住所であることがわかり、彼の持つひとつの住所と近所に位置することもわかりました。

 手紙には、このような不確かな状況で、僕は演奏することはできない、今後、コンサート当日までに、契約書が送られてくるか、なんらかの連絡がない限り、演奏はキャンセルする、という内容を書きました。 この手紙を出しておけば、ギグをドタキャンした、という咎めは受けないだろうという考えです。

 日曜日でも空いているマディソンスクウェア近くの郵便局まで出向き、彼の二つの住所に速達を送りました。

 この文章を書いている22日現在、彼からは何の連絡もありません。 相変わらず彼の電話番号も通じません。 感謝祭(24日)で実家に帰っているので、連絡がつかなかいという事もあるのかもしれないと考えたりします。

 僕の過剰な被害妄想を、後から笑い話にできればといいと思います。 契約書にサインもしていない、その契約書さえない口約束だけのコンサートのドタキャンで、僕が彼から訴えられ可能性は低いと思っているのですが、ふとジャズの仕事を振り返れば、そのギグのほとんどが、口約束で行われている事、契約書がある仕事などほとんどないのが現実なので、なんだか少し不安です。

 彼の目的がわかりません。

 彼から何か連絡があればいいと思います。 コンサートがあるとされる27日だけが近付いてきます。

11/25  <こんなことがありましたの結末>
 New Rochelle のギグは、キャンセルになりました。

 24日の夜に彼から電話が来て、コンサートはあるからと言ってきたのです。

 彼は、僕への連絡の遅れの理由として、会場の教会の使用許可が下りるのに時間がかかった事、家の電話が故障していた事をあげました。

 そして、コンサートの出席者が予定よりも少なくなりそうで始めに提示したギャラが払えそうにない、200ドルくらいまけてもらえないだろうか、と打診してきました。

 僕はこの仕事、断りました。

 『3日前にキャンセルされても困る。 もう音響スタッフは雇っているし、招待状を出してしまっているし。 ギャラの問題か?』

 『ギャラも重要な問題だが、お互いの信頼関係がビジネスを成功させるのであって、今回のようなコミュニケーション不足の中で演奏はできない。』

 僕の頭の中では、裁判沙汰になることまで想定してました。 彼に速達を出したり、裁判では証拠になるかもと思って、笑いをとりにいくことを忘れて。  what's up のページに事の次第を書いたり。
 要は、被害妄想に陥り、もはや演奏できる状態ではなくなっていたからです。

 彼は僕の事を理解してくれ、今回は他のバンドを探す、僕のバンドは日を改めてブッキングするということで、話しがつきました。 彼は、彼の準備不足、連絡不足を詫びたし、裁判のサの時も出てこなくて、安心しました。

 一番の問題は僕の過剰な被害妄想だったのでしょうか。

11/29  <韓流来る>
 というわけで、SOMI グループのピアニストとして、12月4日から19日までニジェールという国に行ってきます。

 3か月前程前から行く可能性を言われていたのですが、『決まったわよ。』の電話が来たのが、先週の水曜日。 その時点でもまだ、何時のフライトだかわからず仕舞いで、本当に行くのか訝しかったのですが、今日(29日)彼女よりフライト情報のメールが来まして、どうやら本当に行くようです。

 聞く所によると、ニジェールで、フランス語が公用語の国が集まってアートのオリンピックがあるらしいのです。
そこで、SOMIさんチームが歌合戦みたいのに参加するらしい。
http://www.jeux.francophonie.org/news_display.jsp?id=418

 SOMI グループはなにしろ大所帯。
彼女とピアノ、パーカッション、バックコーラスが JFK 空港から出発。 中継地点になるパリの空港で、ギターとベースが合流してニジェール入りするらしい。 これだけの人数の航空チケット手配、ホテル手配、ヴィザ手配までこなさなければいけない、リーダー SOMI さんが抱える責任の大きさは相当なものだとは、想像するのですが、これほど間際になってツアー決定することになろうとは、想像できなかったです。 えらいことになりました。

 とりあえず、フランス語ができないと、滞在中かなり、寂しいかもしれないと思って何か『勝手にしやがれ』とか『アメリ』とか見て勉強しておくべきとも考えたのですが、最近、僕はドド夫人がどこからか借りてきた『冬のソナタ』の鑑賞に忙しく、今、いまさらながら韓国ブームです。

 あと5話を残すのみになりました。 僕が想像するに、これからチュンサンの出生の秘密が明かになっていくのではないかと。 どうでもいいが、チェ・ジウって、宮澤りえと田中裕子と藤田朋子と中井アナウンサー(古田プレイングマネージャーの奥様)と市毛良枝が合体したみたいな顔をしているなぁ。 ってこれって既に日本では語り尽くされた議論だったのでしょうか? サンヒョクに幸あれ!

12/3  <いざニジェールへ!>
 結局サンヒョクは報われなかったか。。。
『冬のソナタ』をすべて見終え、感傷にふける暇なく、明日から『夏のニジェール』に行ってまいります。

 インターネットで少し検索してみたところ、ニジェールには在日本大使館はなく、緊急時にはコートジボワールの日本大使館に連絡しろ、と書いてありました。 そのコートジボワールの大使館情報には、コートジバワールの首都は今政情不安定で渡航の延期が望ましい等と書かれてあり、何かことがあった場合いったいどうしたらいいのでしょう?

 とりあえず、フランス語辞典と初級者フランス語の文法書、日焼け止めクリームとサングラスを買ってみました。 正露丸もいつもより大目にバッグに入れました。 ツアーというよりも、探検に行く心境です。
2週間の滞在中、メールや電話での交信が途絶えるかもしれません。 僕とコンタクトをとりたい方は伝書鳩、あるいは、かがり火でお願いします。

(お知らせ)
1)こちらに僕のインタビューが載っております。
http://g-tsuku.tsutaya.jp/?eid=2447

2)12月に発売の『 Jazz Life 』 1月号に、11月に行われた SOMI ライヴの模様がレポートされているはずです。

12/20  <ニジェールの旅・1>
 ニジェール。

 NY からパリ経由の飛行機で片道約13時間。
サハラ砂漠の南側に位置するこの国は、3年にわたる干ばつ被害で食料不足が深刻化して、飢餓に苦しんでいるという。 現在、ニジェールは内戦もなく平和だが、国連のデータによれば、世界最貧国にランクされているとのこと。

 12月は冬とはいえ、日中は40℃ 近くになり、熱中症になりかけた日もあった。 3月になれば、日中50℃ を超えることもあるとか。
 乾いた空気。床に溜まりをつくるくらい水を撒いて寝ても翌日には乾いていた。

 イスラム教徒が多く、お祈りの声が決まった時間に町中に響く。
 フランス語が公用語。 もっとも教育が受けられる人が限られているらしく、現地語のみ話す人も多いらしい。

 ラクダを連れている人。 ヤギの群を引き連れている人。
ロバ車。商売品を大量に頭に載せて歩く人。
ポリオを患っている人。
シャツは着ているのに下着をつけていない少年。
僕のような外国人が街を歩けば、すぐに物乞いの子供達に囲まれる。

 この国に海はない。
新しく鋪装された車道を除き、一面、赤い土が広がる。
赤い砂が、目や鼻から口にいつも飛び込んでくる。
赤い土の上に家があり、生活があった。

12/21  <ニジェールの旅・2>
 この国で、フランス語圏の国によるアートとスポーツのオリンピック「 Jeux de la Francophonie 」が12月7日から 17日まで行われた。

 旧フランスの植民地だった国が集まるイヴェントということからして、フランスという国の。 おそらくアメリカへの対抗心というか、威信の復興とか、時代錯誤な意地みたいのを感じたし、またアート(歌や小説、ダンスや絵画)もスポーツ同様にメダルを争うという事自体に疑問がないわけではない。 この大会、今回が5回目とのこと。

 僕は、ルワンダ代表として参加したのだ。厳密に言うと、歌の部門のコンペティションに参加するルワンダ出身のシンガー、 SOMIのピアニストとして参加したのだ。
因に、今回の SOMI バンドは、パーカッションはメキシコ系。 ギターはセネガル人。 ベースはカメルーン人。 ピアノは日本人ととても国際的だ。

 開会式で、僕がまさかルワンダの正装して、『 RWANDA 』と書かれたプラカードを持つ人の後について、観客席に向かって手を振りながら3万人の観衆に埋まった競技場内を行進するとは、想像していなかった。
 運動音痴の僕にはまず開会式で会場を行進する事など、人生でないだろうと思っていたが、わからいものだ。

 しかし、見た目がアジア丸出しだし、ルワンダの事についてあまりよく知らない日本人が、国の威信をかけて戦う本当のルワンダのアスリート達と隊列を組んで行進していいものなのか、少し思うところもあったが、気分はまるで満面の笑みで一杯のヤワラちゃんだった。
 アーティストもこういう体験ができるということならアートもメダル争いをしてもまぁいいか、という気にさせられた。

 (因にルワンダには男子1万メートルで優秀な選手がいて、今回の大会でも見事優勝。 次回の北京オリンピックでも金メダル候補らしい。 僕は表彰式を見たが、何故かルワンダの国歌のテープが用意されていなかったらしく、彼は国旗掲揚時、マイクを持って自分で歌っていたのが忘れられない。)

12/21  <ニジェールの旅・3>
 僕が滞在していたのは、首都ニエメのオリンピック村。 参加30カ国以上の国ごとに、家が割り振られていた。村自体は、ライフルを持った警察隊によって厳重に警護されていた。

 家は、この大会のために急遽完成させたもので、見た目は新しいのだが、その中身は色々欠陥があった。 ルワンダチームの建物は、冷蔵庫は故障、排水構は詰まりやすく、シャワーは壊れ、夜には異臭に満たされ、部屋には、アリやらハエが多数入り込み、リビングルームには、たまにトカゲもはいずり回っていた。2週間、テントでキャンプしていたような勢いがあった。

 準備不足、統率力のなさの露呈は甚だしく、時間通りに物事がすすむことはなく、その度に呆れ、あきらめることを学んだわけだが、それでも大会は無事終わったのだからたいしたものだ。

 そもそもこの国の住民のほとんどが時計を持っている気配がなく、時間を太陽の高さで計られている印象をうけた。
 大会プログラムに『ルワンダグループのリハーサルは午前10時から』と書かれてあっても始まるのは、最低2時間は遅れた。 オリンピック村からの移動バスの運転手が道を間違えたり、リハーサル室の鍵があいてなかったり、鍵を持っている人がそもそも2時間遅刻したり。

 ここでカリカリしてもしょうがないということを滞在5日を過ぎたころから学ぶようになった。 単にここでは時間の流れがゆっくりしているのだ。 そしてなにぶん、暑いのだ。 急ぐと倒れるのだ。 電車がスケジュールより一分でも遅れれば大問題になる日本のスタイルもあれば、ニジェールのように2時間遅れでも、リハーサルが行われたということが重要いうスタイルがあるということなのだろうか。

12/21  <ニジェールの旅・4>
 大会中、各国のミュージシャンとワークショップが何度か行われて、それぞれの国の民族楽器の紹介やジャムセッションをした。

 例えば、音楽は言葉を超えて人とコミュニケートできるという。今回、フランス語ですべて大会が行われる状況で、まるでフランス語ができない謎の東洋人は、長年のアメリカ生活の経験上、音を出せばわかりあえるのさ、という思い上がりがあった。

 しかし、この国でピアノという楽器は非常に少なく、演奏できる人さえ少ないようだ。
 ワークショップでもピアノやキーボードが用意されておらず、僕は初め、ただ眺めているばかりだった。

 ここでいう音楽とは、太鼓であり、歌であり、踊りであった。 アフリカのミュージシャンは、リズムで交流しているのだ。 僕が学んできた西洋の和声学、ハーモニーという言葉はここでは必要とされている感じがしなかった。 ハーモニーに自信があった僕はここでは人とコミュニケーションがとれないのではないかという、寂しい気持ちになった。

 しばらくして、ニジェールのパーカッションの人が、僕にトーキングドラムを貸してくれた。 皆に合わせて懸命にリズムを放った。 だんだんとハイになっていく自分がいた。 皆めいめいに、歌い、踊った。 僕も自然と声がでた。皆一様に笑顔だった。
これがニジェールのジャムセッションなのだ。

12/21  <ニジェールの旅・5>
 この大会期間中、パリ在住、マリ出身のミュージシャン、 Cheick Tidiane Seck に会った。

 サリフ・ケイタのキーボーディストとして活躍。歌も歌い、ギターも弾き、プロデューサーとしても縦横無尽に活動を繰り広げる彼は、今年52歳の誕生日をニジェールで迎えた。
 彼は、このオリンピックの開幕式の音楽プロデューサーとしてニジェールに滞在。
 SOMI バンドのパーカッション、ダニエル・モレノは彼のバンドで何度もツアーに参加している旧知の仲。 ダニエルを通じて僕は彼に会う事になった。

 彼の滞在するニエメの繁華街近くの家に2度ほど遊びにいき、ヤギの丸焼きをごちそうになったり、彼の参加したプロジェクトの CD を聞いたり、彼が今ハマっているというパキスタン音楽の DVD で僕を洗脳した。 僕は完全に圧倒された。

 彼は僕に、今回の SOMI バンドのコンペティションのために彼のキーボード( KORG 01 )を貸してくれた。 ニジェールのキーボード事情は貧しく、はじめにリハーサルで会場が用意してくれたキーボードの劣悪な状態にあきらめを覚えていた僕は、彼の好意をとても感謝した。

 ところが、そのキーボードを僕は壊すことになるのだ。 予選を突破した SOMI チームの決勝の日。 サウンドチェックが昼の12時ということだった。キーボードをセットアップして、サウンドチェックを待った。 ところが、例によって、サウンドエンジニアが到着したのが2時を周り、様々な不手際で、キーボードの音出しが3時近くになった。 その間、炎天下に置かれたキーボードがオーバーヒートを起こし、電源が全く入らなくなってしまったのだ。

 必死にクーラーの効く部屋でキーボードを冷やしてみたものの、結局電源は入らずじまい。
 演奏本番直前に、ベルギーのバンドのピアノを貸してもらう話しをつけその場をしのいだものの、僕は申し訳ない気持ちでうなだれていた。
 演奏終了後、楽屋に現れた Cheick にひた謝り。 彼は、事情を理解してくれ、とりあえずパリに持って帰って修復できるか見てみるから、ということで話しがついた。

 パリのアフリカ音楽のシーンの核の存在の Cheick との出会いは、ほろ苦いものになった。

12/21  <ニジェールの旅・6>
 計16ヵ国が参加した歌のコンペティション。 各国のバンドは20分の持ち時間内で自慢の喉を披露する。歌詞はフランス語か現地語のみ可。英語の歌詞は失格になるということだった。

 ルワンダでは、10年前の内戦以降、英語が主に使用されているらしく、SOMI も実は、フランス語がさほど得意というわけではなかった。 彼女のレパートリーは英語の歌詞かスワヒリ語だったため、今回の大会のために、フランス語に訳詞した曲もあった。

 他の国のバンドはすべて聞くことができた。 シャンソンぽいもの、フレンチポップ風なもの、アメリカのR&B風なバンドが多かったなか、一際、僕を刺激したのは、地元ニジェールのSOGHAというグループの演奏。女性ヴォーカルに2人のバックコーラス、エレキギター、エレキベース、伝統打楽器奏者2人の計7人組。 因に、音楽隊は皆頭にターバンのいわゆるイスラム教のスタイル。

 メインヴォーカルの独特な節回し。
バックコーラスの見事なハーモニー。
そして3人による踊り。
音楽隊の一糸乱れぬ演奏。
今まで耳にしたことのない音楽。
砂漠の音楽というものなのか。
嘘のないリアルな音楽だった。
観衆の熱烈な歓声。
いたく感動して、僕は涙を流してしまった。

 さて、ルワンダチームはニジェール等と共に、決勝5組に選ばれた。 決勝では、ルワンダの演奏中、男性客が突然ステージ上に登り、 SOMIとダンスをして、警備隊にその後取り押さえられるというハプニングがあった。 観衆の歓声もニジェールの次に大きかった気がした。 僕個人の予想では、ニジェール金、ルワンダ銀かなぁと思っていた。

 ところが審査結果はニジェールもルワンダもメダルを取れなかった。 観客からはブーイングも出た。 (因に、ベルギー金、モロッコ銀、コンゴ銅であった。)

 所詮、アートにメダル争いが似合うものではないという話しになるのだが、ルワンダがメダルを取れなかったことに関して、色々ゴシップを聞いた。地元の新聞でも論争になったという。 僕個人の感じだと、ルワンダは、プロ過ぎてアマチュア精神を重んじるオリンピック精神に適わなかったのかなぁ、という印象を持った。 もちろんメダルを取った国の歌手は皆よかったけれど、ニジェールの方がはるかにスピリチュアルだったし、僕を泣かせたし、手前みそになるが、SOMI の存在感はどのバンドよりも圧倒的だったと思う。

 結局手ぶらで凱旋帰国となったわけだが、気にせず前に行こうとバンドメンバーは語り合った。

12/21  <ニジェールの旅・7>
 他の予選参加国の演奏を観客席で聞いていた時、3列後ろの席に、日本人の集団を見た。

 NY ならば、決してしないだろうに、日本語を聞きつけた瞬間、日本人だ! と思って思わず挨拶しにいったドド君。

 聞けば、独立行政法人 国際協力機構、略して JICA のスタッフだった。

 『ルワンダ代表として参加してるんです。』
と言ったら、
『へぇー、ルワンダに生活されてどのくらいになるんですか?』
と一様に質問されて、かいつまんで僕のプロフィールを紹介し、ルワンダの応援団になってもらった。

 終日フリーの日を利用して、僕は JICA のオフィスまで遊びにいき、スタッフの方2人と夕食を共にする機会を得た。 援助を必要としている国の自助努力の手助けをするのが目的というニジェールには隊員が20名くらい活動しているという。

 会食したTさんは、水泳を教えるのが専攻、Fさんは医療援助の専門で赴任しているという。 それぞれ他のアフリカの国々でも活動をしてきた彼等は口をそろえて、最貧国にようこそ、と僕を迎えた。
 車で数10キロも走れば、首都ニアメではわからない、飢餓の状況を目のあたりにしますよ、腹が飛び出ると言う段階を超えて、骨と皮しかないような子供がたくさんいる、という話しに寒気を覚えた。

 この国で援助活動するという心意気に尊敬の念を覚えたし、こういうところで日本人が活躍していると思うと、僕も日本人でよかったなぁという単純な愛国心が芽生えるものだ。

 夕食後、オリンピック村が見たいという彼等の希望にお答えして、彼等の車で、僕の滞在場所まで移動し、オリンピック村にあるお土産屋さんで共に買い物をした。

 ニジェールで買い物する時は、『値切る』ことを学ばねばならない。
定価というものがないのだ。

 Tさんは、高級なネックレスを最初の言い値から根切りに値切って 半額に落とし、さらに、もうひとつ安めのネックレスをおまけにつけさせて、それを僕にプレゼントしてくれた。

 『こういう値切りのゲームを楽しむ文化がこの国にはあるんですよ。』
と何事もなかったように話すTさんにますます尊敬の念を抱いて別れた。 またどこかでお会いできたらいいと思う。
スタッフの皆さんのご活躍を心より祈る。

12/21  <ニジェールの旅・8>
 オリンピック閉幕式の日、在ニジェールのルワンダ人、ポーリーさんが、 SOMI バンドを昼食に招待してくださった。

 この方の家は高級住宅街にあり、プール付き、衛星テレビ付きの豪邸であった。 召し使い2人が次から次へと食事を運んでくる。

 ワインにチーズに牛肉から鶏肉まで豪勢な食事をいただいた。 今まで食べてきた鶏肉は一様にやせていて、ほとんど食べる所がなかったが、この日の食卓にはまるまると太った肉が飾られていた。

 食事後、皆でルワンダの音楽を聞きながら踊った。踊りすぎて、閉幕式に行けなくなった。 皆で閉幕式の模様を流すテレビを見た。

 飢えて死ぬ人がいる同じ国で、こういう人がいるのがすごいものだ。後で SOMI から聞いたところでは、ポーリーさんは、10年前のルワンダの内戦で、ほとんど身内を殺害され、フランス人のご主人と結婚していたお陰で、ニジェールに逃亡できたと言う過去を持つという。 自分の娘2人以外にやはり内戦で両親を殺害された甥っ子を引き取って育てているという。
アフリカは複雑だ。

12/21  <ニジェールの旅・9>
 滞在最終日の夜、ニジェールの文化事業に携わるフランス人の方が、 オリピックでの SOMI に感銘をうけて、急遽コンサートを企画してくださった。

 ニジェールで出会った多くの友人が集まっていいライヴになったと思う。 Cheick も来てくれた。 セネガルのダンスチームも来てくれた。  JICA の方も来てくれた。

 心打たれたのは、ニジェール出身のギタリストで、日本で公演経験のある少し日本語が話せるジョンさんの僕にくれた別れの言葉。僕が全くフランス語ができないのを知って、必死に英語で話してくれた。
『I need help. Niger is poor. I'm poor. Send me a book or CD. I need to learn music. Help me.』

 I will. と答えて、空港に向かった。

12/21  <ニジェールの旅・10>
 19日の昼に無事JFK空港に着いた。 顔は日焼けし、体重は出発前より2キロ痩せていた。

 この2週間に体感したものを本当に消化するのにかなり時間がかかりそうだ。
 日本で育ちアメリカを見てきた僕の全く知らない世界があった。 全く知らない音楽を聞いた。

 世界は広いということか。 世界は公平ではないということか。

 フランス語を勉強したい。 特に西アフリカのミュージシャンとコミュニケートするのに、フランス語は有効だ。

 全く人が話しているのがわからない状況というのは、実に不安だった。  JICA のオフィスまで、実はタクシーに一人で乗って行ったのだが、これは、かなりの冒険であった。
 途中で、運転手が僕の腕時計を指差して、しきりに話してきたのだが、彼が時計を欲しがっているの、と言う事を理解するのに10分ほどかかった。
 時計が欲しいって、言っていたのが分かった時、嬉しくなってあげそうになったが、いやいや、この時計、必要必要と思いなおしてエクスキュズ・モワと断った。

 そういえば、ニジェールからパリの飛行機で、 SOMI BAND 5人のうち、何故か僕とベーシストだけビジネスクラスのチケットだった。 生まれて初めてのビジネスクラス体験はそれはもう極上だった。 結局、世界は公平ではないのだ。

12/26  <今年のクリスマス>
 23日。 日本クラブのクリスマス会。

 日本のいわゆる大手企業の NY 駐在の方のサロンというべき『日本クラブ』のクリスマス会があった。昨年に引き続き、NY シティオペラ常任指揮者の山田敦さんがショーをプロデュース。

 ドド君、プログラムのトリを飾る、歌手4部、弦楽3部、ピアノ、ドラム、ベース、サックス計11名という編成による、演奏時間30分のクリスマスキャロルメドレーの編曲を担当。 山田敦さん指揮のもと、ピアノ演奏も担当。 気分はもはや前田憲男先生だ。

 今まで、オペラ劇場の観客席から拝見していたマエストロの指揮と、時折見せる、左手で前髪をかきあげるカッコイイ瞬間を、今回初共演ということで、前方から拝見できて感動した。

 この日会場で、フジテレビの久下香織子アナウンサー (この日の総合司会担当)や秋吉敏子、ルータバキン夫妻 等、僕のミーハー心を刺激する方に多数お会いできた。 ドド君ご満悦の夜。

 24日。 Toru Dodo Trio at the Kitano Hotel。

 ベースの Joseph Lepore とニジェールの旅を共有したパーカッションの Daniel Moreno とのトリオで NY のクリスマス・イヴを 百々徹の音楽で染めた。 (なんてロマンティック!)

 多くのアメリカ人は家族と共に過ごす静かな NY のクリスマスイヴに、 Toru Dodo Trio で 果たしてお客さまが集まるのだろうかという、当初の不安を吹き払うかの如く、予約客を合わせ、多くの方がお越しになられた。 ここのライヴを企画する春日氏は実にギャンブラーだ。

 Daniel Moreno とこのフォーマットで人前で演奏するのは、これが3回目。 譜面のない 全く無からの即興演奏を、セットの前半に20分近く演奏するのだが、これがチャレンジングで面白い。
 いつになく 体中の毛穴が開いた 感触があったし、演奏後の疲労感は ただならぬものがあった。 個人的にはよくピアノが弾けた実感があった。
 が、果たして この音楽を クリスマスイヴに お客さまは聞きたかったのだろうか、と言う疑問が 少し僕の頭をよぎる。

 25日。 Toru Dodo Jam at Cleopatra's Needle.

 3週お休みして久々のクレパト。 クリスマスということもあってシットインするミュージシャンはもとより お客さま自体、来るのだろうかという不安があった。
 しかしながら、最近結婚された友人のグループ(ダイちゃんメグちゃんお幸せに!)、日本で僕のライヴを見た事があるという NY 訪問中の歌手の方のグループがお越しになり、場は暖かいものになった。 そして極めつけは、国連日本特命全権大使ご家族までいらしてくださった。

 2日前の日本クラブのクリスマス会でご夫人とご挨拶して、どさくさに自分のライヴの宣伝もさせていただいていたのだが、まさか、本当にお越しになるとは思いもしなかった。
 短い休憩時間の間、少しだけお話をさせていただくチャンスがあったが、まさか、クレパトで、
『国連安保理』
『常任理事国入り』
等という単語を現場で仕事されている方の口から聞くとは思わなかった。 演奏なんかしてないで、2時間くらい日本の外国戦略について、講義を受けたくなった。

12/29  <年末は感謝の気持ちでいっぱいです。>
 2005年もいよいよ大詰め。

今年は車生活の便利さを知った。
(今年使った修理代で中古車をもう一台所有できそうだった。)

今年は色々な方に出会った。
(3月の日本ツアー中、イッセー尾形さんが演奏会場にいらしたのに、僕が気付かなかったのが今年最も悔やまれる。)

今年は色々な場所へ演奏旅行ができた。
(ニジェールの旅の作文は我ながらよく書けたと思う。)

今年はグリーンカードを取得できた。
(これを取得するために頑張ってきた感じがあったのだが、取れちゃうと、少し寂しい感じが。 2枚目取得を目指すかも。)

今年は自分の作品のレコーディングもした。
 (まだミキシングができてないのです。 でも来年2月に発売されるらしいですよ。 3月には帰国演奏するようですよ。)

今年はゴルフを覚え、ゴルフ後、焼き肉で打ち上げという大人な遊びもできた。

実は、僕はすでに、人生にかなり満足しているのだ。 ここまでくると、僕に足りないのは、ひょっとするとお金だけなのではないか、という気がしてきた。

『お金は後からついてくるものなのよ。』
と人から言われたことがあるが、今のところ、いくら見回しても、お金が僕の後をついてきている気配を感じない。

僕が早く走りすぎているのだろうか?
短距離も長距離も遅く走るのが得意だったドド君に、ついてこれないお金っていったいどういうこと?
まるでお金にやる気が感じられない。
このままだと、仮にお金が背後についてきていたとしても、首が回らない状態になって気付かない、なんてこともあるのではないか。
(どうです、このオチは。)

 今年もこのサイトを覗きにきてくださった方々に感謝いたします。
 (一日5回くらいチェックしているお父さんお母さん、時間と電力の浪費について考えたことはありますか? 新聞だって多くて一日2回、たまに号外が出ても3回しか更新されないんですから。)

 でしゃばりエディターさん、今年も大変お世話になりました。 来年も甘えさせてもらってよろしいですか?

 よいお年を!